Policy
活動の趣旨
一般社団法人共にいきるは、多様性のある誰もが生きやすい社会の実現を目的に活動を行っており、様々な理由で人が本来有している基本的人権を侵害され、社会で生きづら思いをしている人たちの支援をしています。
最近、「多様性が必要だ」という主張を、良く耳にするようになりました。でも、なぜ社会に多様性が必要なのでしょうか。
この日本社会は同調圧力が高いのが特長です。男はこう生きなければならない、女はこうしろ、こういうシチュエーションではこのように行動しなければいけないといった固定化された価値観が存在しています。
この社会では、その価値観に沿って生きるのが当然だと思われており、価値観から派生した数多くあるルールの1つでも守れなかったら、即、他の部分も含めて全否定される傾向が強くあります。1つでも枠からはみ出たら空気を読めない人間、協調性のないヤツだと周りから無視され、ひどい場合は社会から抹殺されてしまいます。
人はみなそれぞれが違った個性を持っています。社会がこと細かいルールに従うように全員に(暗黙のうちに)要求していても、そのルール全てに従って行動できない人が出てくるのは当然のことです。
ルールの元になっている価値観に疑問を持つ人もいるでしょう。あるいは、その価値観は認めながらも、身体的、精神的な問題、金銭的、時間的な問題で価値観通りに行動できない人もいるでしょう。
社会はこれまで、そういった価値観通りに生きられない少数派の人たちをルール通りに行動できないからと言って排除してきました。
でも考えてみて下さい。いつ自分が少数派になって、社会から排除される側に回ってしまうか分からないのです。交通事故にあって身体障がい者になる。病気になって仕事を辞めざるを得なくなり、金銭的に行き詰まる。会社で仕事に追いまくられ、うつ病になってしまう。これらはいつ、誰に起こってもおかしくありません。そのような状況に陥ったときに、社会が普通と考えていることを普通にできるとは限りません。いえ、何かしらのことができなくなると考えた方がいいでしょう。
自分が社会的弱者になったときに、あいつは違うといって排除される社会と、個として尊重してくれる社会。あなたはどちらの方がいいですか。
私は、後者の方がいいと考えています。
後者の社会実現のためには、多様性を認めることが必要だと思います。多様性を認めるとは、自分の考えと異なる考え方をする人たち、自分の行動とは違った行動をする人たちが存在することを認めること、自分と異なる考えや行動を頭から否定するのではなく、そういう考え、行動もありえるんだと受容することだと、私は考えています。
どのような人でも、あるいはどのような状態の人でも、攻撃、排除されることなく生きていける社会を作りたい。
そして、誰もが笑顔で幸せに生きている社会にしたい。
そのような思いから、この社団法人共にいきるを設立しました。
代表理事 鈴木邦男
Message
2代目理事長に就任して
2024年3月6日
椎野礼仁
この度、新しい理事長に私が就くことになりました。会のそもそもの生みの親であった鈴木邦男の後を継ぐということは、私にとっては荷が重いことではありますが、理事長職をいつまでも空席にしているのも無責任かもしれず、他の理事の方々とも相談して重責を務めることを決意した次第です。
幸い、鈴木邦男が残した理念は明確な文言として書き残されているので、私としては具体的な実践活動(継続中の相談への対処、事例研究等など)を推進しようと考えています。
ぜひ、皆様からもの協力、お知恵を賜りながら、進めていければ幸いです。
共に悩み、ともに生きる。そのことのために。
Message
行政やマスコミがつくる偏見・差別
一人で闘うにはあまりに無力だから
松本麗華
● 犯罪者とされる人の「家族」になるということ
わたしの父は、松本智津夫――オウム真理教の教祖であり、麻原彰晃として知られた人です。わたしはこれまで、社会生活だけでなく、生きることをあきらめてしまいそうな経験をしてきました。
マスコミに追い回されて交通事故に遭い、13歳のときには水着姿でプールに入っているところを盗撮され、テレビに流されました。夜中に、大きなテレビカメラを担いだテレビ局の男性が、家の中に侵入してきたこともあります。
週刊誌やスポーツ新聞は、無断でわたしの顔写真を掲載しました。当時未成年だったわたしの目元を隠すのは、細い「マッチ棒」一本だけ。これでは顔をそのままさらされているのとかわらないので、街を歩いているだけで通報される少女時代を送りました。
警察も行政も、わたしを助けてはくれませんでした。それどころか、率先して偏見をあおってきました。仕事を失い、銀行口座も作れなくなり、外国にも行けなくなりました。
ことあるごとに生きる道を閉ざされた、わたし自身が経験したこと。それは迫害、いじめ、差別と呼べるものでした。
「何を言っているんだ」と思う方もいるかもしれません。
「あの凄惨な事件を起こした、自分の親父を恨め」「あの事件からすれば、麻原の娘であるお前がそうなっても仕方がない」「俺だって、麻原の娘と一緒に仕事するなんていやだ。周囲の迷惑を考えろよ」と。
しかし、わたしが経験した限り、「事件」そのものが「家族」への迫害や差別へつながるわけではありません。
同時に、思うのです。犯罪者とされる人の子どもや家族を、親や家族が誰であるかという理由で、社会から排除してはならないのだと。
日本国憲法13条は「すべて国民は、個人として尊重される」と規定しています。そこに例外をつくることは、例外の範囲を広げ、やがては自分自身の人権が守られなくなるかもしれません。
あるとき家族が突然「加害者」となり、その日から「加害者家族」とされる、そんな自身にはどうしようもない運命によって、差別し、排除することを当然のこととしてしまうことは、おそろしいことだと、わたしは思います。
● 偏見や差別は作られるもの
この社会に蔓延する、犯罪加害者とされる人の「家族」に対する差別や迫害。
その「家族」に向けられる誹謗中傷、偏見や差別は、人や組織、国家によって作り上げられ、拡大していくという現実があります。
いわゆるオウム事件が原因でわたしたち家族が差別されるのであれば、その差別のピークは事件直後の1995年であったはずです。しかし実際は、差別はしだいに強まっていきました。
地下鉄サリン事件のあった1995年、わたしは小学校に行きたいと希望しましたが、富士宮市の教育委員会から来ないで欲しいと「お願い」され、通うことができませんでした。
翌96年、わたしは福島県いわき市に引っ越しし、中学校に通おうとしたところ、小学校5年生から通う必要があると言われました。それに加え、一定期間は学校とは別の施設でオリエンテーションを行い、その観察結果を住民に報告し、住民の了承がなければ学校に通えないとされました。つらいことではありましたが、この当時はまだ行政には形の上だけでも法を守り、就学をさせようとする姿勢は残っていたのです。
ところが、99年になると姉をはじめとして当時5歳の弟までが自治体から住民票を不受理にされ、教育委員会も就学を拒否しました。
マスコミ報道も、初めてわたしについて触れた95年5月の記事では「お茶目」と書かれていましたが、次第に暴力的な人物として書かれるようになり、97年3月の週刊誌報道ではわたしが「拉致監禁を指示した」というような事実無根の報道がなされ、わたしを凶悪犯罪者のように扱う記事まで掲載されました。報道は過激化していき、歩調を合わせるように行政からも差別的な取り扱いが強まっていきました。
● 訪れた転機――松井弁護士との出会い
足し算、引き算から勉強を始め、高校合格をめざしていた2000年――16歳のとき、家に勉強道具を取りに入ったところ、わたしは弟が過酷な状態に置かれているのを目の当たりにし、下の姉と相談した結果、保護することになりました。
おりしも、公安調査庁がオウム真理教に対し、団体規制法を適用しようとしているときでした。
警察官に事情を話し、警察官も弟の保護を問題視しませんでした。しかし、その保護が、「誘拐」とされ、騒がれるのはあっという間のことでした。
マスコミは大々的にわたしを「誘拐犯」と報じ、指名手配をされた上、逮捕され少年審判にかけられました。
このとき、松井武弁護士と出会えたことは、わたしにとって人生の大きなターニングポイントになりました。
松井弁護士のご尽力によって、国はわたしを「誘拐犯」とすることはできず、おかしなことですが「正当な理由なく」家に入ったとして保護観察処分となりました。
実はわたしは、逮捕前から教団を離れると決めていました。松井弁護士は、わたしの後見人になってくださり、先生の支えもあって、教団を離れることができました。ほかのきょうだいも、このときに教団を離れています。
● 教団の幹部だという虚偽情報を流されて
2014年、法務省が管轄する公安調査庁は、わたしが教団の実質幹部であるというデタラメな主張をしました。そんな事実はなく、それどころか教団はわたしを悪魔として忌み嫌っていました。にもかかわらず、わたしが教団幹部であるという虚偽の発表が流されてしまいました。
そのころからです。銀行口座の開設を試みても拒否され、新規口座の開設ができなくなってしまったのは。
それだけではありません。以前は問題なく入国できた国に、突然入国拒否されました。その国の入国管理局は入国拒否の理由について、「利益に反するスパイ行為に従事」「政府の転覆に従事、または扇動」「テロに従事」していた、している、あるいは今後従事すると信じるに足りる合理的根拠がある場合は、(入国を)拒否できるという条文を挙げてきました。
この扱いは「父の娘」「麻原彰晃の娘」だからというだけでは説明がつきません。以前入国したときも、父がわたしの親であることに変わりはなかったのですから。
これはおかしいと、考えざるを得ませんでした。公安調査庁が、わたしを「教団の実質幹部」と虚偽の主張をしてから、おかしなことが起きすぎている。公安調査庁は新たに、わたしについての虚偽情報を、銀行や外国に流したのではないか、そう疑いました。
そこで公安調査庁に対して、わたしの名前をどう扱っているかについて、情報開示請求を行いました。しかし、黒塗りの書面が出てくるどころか、「我が国の安全が害されるおそれがある」「公共の安全と秩序の維持に支障を及ぼすおそれがある」という理由で文章が存在するかどうかを含め、開示自体を拒否されました。
松本智津夫の子ゆえに、わたしは、就職して生きて行くという選択肢を持つことが許されなかったようです。
● 行政に迫害されるということ――脅かされる生存
姉や妹、弟たちも、行政からの迫害にさらされました。
地方自治体は、住民票を不受理とするだけでなく、驚いたことにゴミ収集を拒否し、民間業者に連絡して、し尿くみ取りを拒否させるなどして社会的インフラを断ちました。国民皆保険のこの国で、姉たちは無保険になりました。もちろん公的選挙のときには投票券が届きません。選挙権がないのです。
市立小学校の教員たちは連絡帳を通して、妹弟を就学させないための署名を集めました。裁判を経てやっと義務教育を受けられるようになった妹たちは、教師主導で助長されるいじめの中、心を壊されていきました。
「これ以上いじめを放置されたら妹が自殺をしてしまうかもしれない」 わたしたちが教育委員会でこう訴えた際に、中根台中学校の校長は、同席していた自校に通う、当時中学1年生だった妹を指さしてこう言いました。
「○○(妹の名前)さんにはかわいそうだけれども、(一連の)事件を皆さんが(どう)とらえているか? 一人しか死んだわけじゃないですよね。一人以上死んだわけでしょう?」
公立中学校の長である校長が、いじめを止めるどころか、妹が死ぬのは仕方がない、と本人に向かって言ったのです。一連の事件では多数の死傷者が出ており、それと比べると妹の自殺など大したことではない。妹は「犯罪者」の娘であり、その命は、軽いものだから――。
国や行政が差別を作るといわれても、「今どき、そんなことがあるはずはない」と思う方もおられるかもしれません。穢多(えた)非人といった部落差別が現代では深い反省の対象となっているように、さまざまな「差別」が否定されています。しかし、たとえば関東大震災直後に起きた朝鮮人やその他の人々に対する虐殺に対して東京都知事は謝罪表明を拒み続けています。21世紀を迎えて20年以上を過ごした現代においても、差別や偏見は国や行政によって作られ、扇動され、醸成されかねない、それがこの国の現実なのです。
● 生きるために、守るために――差別を受容せず闘う道を選ぶ
誰かが、誰かの排除を決める。その声が大きければ、それは社会の声となっていき、社会からの排斥へとつながっていきます。国家が差別を主導する場合、もはや個人では太刀打ちをすることができません。
「差別はいけない。そんなことは当然」
大半の方がそう考えておられると思います。それが現代の常識、モラルとされているからでしょう。
人種や肌の色、性別、宗教、生まれた地域、教育レベル、障がいの有無等、各国各地で差別が繰り返され、克服しようと努力され……。そのような歴史が繰り返されています。
しかし、差別は良くないという表向きのモラルが盛んに喧伝されているにもかかわらず、偏見にもとづく迫害行為や差別行為は存在しています。わたしたちが「犯罪者の子だから」と、生きる道を閉ざされてきたように。
かつてわたしは、「差別を受けても仕方がない」と受け入れてしまったことがありました。
「江戸時代なら一族郎党皆殺しの刑だよ。今は生かしてもらっているだけでも、感謝しなきゃいけないよ」と、いじめに苦しむ妹に向かって、そう言ってしまったこともあります。
差別を受け続けることで、わたしが差別を内在化させ、受け入れてしまっていたのです。わたしは自分自身を差別し、妹にも申し訳ないことを言ってしまいました。
わたしがこのままじゃいけない、泣き寝入りを続けてはいけないと考えを改めたのは、妹や弟たちに、自分と同じ目に遭ってほしくなかったからです。
どんな努力も報われない人生に、わたしは絶望しかけていました。大学受験で勉学に励み、3つの大学に合格しました。しかし、3つとも入学拒否されました。
報道被害もそうです。いくら松本麗華であるわたしが努力して生きようとも、マスコミからはモンスターとしての人格を与えられ、公安調査庁にはわたしを悪魔と呼ぶ教団の「実質幹部」にされそうになりました。
わたしは自分が生きていくためだけでなく、妹たちが同じ道を歩まずにすむようにと、一つずつ裁判で闘い始めました。ただでさえ弱っている心に、裁判に向き合う負担。相手方からぶつけられる、心ない言葉の数々。
何度か生きることをあきらめかけました。それでも、松井武弁護士や姉をはじめ周囲の方々に支えられ、闘い、ここまで生きてくることができました。
わたしは学校にも通えず、保護者を失った子どもで知識も経験もなかったので、未成年者でも裁判などで闘うことができることを理解していませんでした。仮に知っていたとしても、具体的にどうしたらよいのか分かりませんでした。その両方をわたしに教え、一緒に闘ってくださったのが松井弁護士でした。
松井弁護士は最初に、闘うことは時間と労力をとられ大変であること、また、それだけの労力をかけても負ける可能性もあると言われました。長くて、つらい闘いになると。でも、「逃げてばかりでは、自分の人生を生きることはできないと思う」というお言葉に、わたしははっとさせられたのです。何もできないけれど、周りに自分の人生を決められたくないと思い、わたしは何かあったら松井弁護士に相談するようになりました。
● どうか一人で抱え込み、思い詰めないでください
わたしは、加害者とされる人の「家族」です。この社会には、多くの加害者とされる人の「家族」がいます。
その中の、多くの方が、いわゆる人権を剥奪され、社会生活を壊され、ときには自死に追い込まれています。
誰かの家族であるという理由で、死なねばならぬほどに追い詰められ、生命を絶たねばならない――。
誰かの「家族」に生まれることは、罪なのでしょうか。「加害者の家族」に対する迫害、差別は、甘受しなければいけないものでしょうか。
「加害者家族」の問題だけでなく、社会に蔓延するさまざまな偏見や差別。
わたしたちは一人一人が、個人として尊重される大切な存在であるはずです。
どうか、差別を容認しないでください。差別されることが当然だと考え、自分自身を否定しないでください。あなたは一つも悪くないのだから。
いま苦しみ、助けを必要としている方、近くに法律の専門家である弁護士さんや、信頼のできる方はいませんか。どうか一人で思い悩み、追い詰められる前に相談してみてください。
一般社団法人「共にいきる」も、皆さんが生きていくためのお手伝いができればと考えています。
どうか、一人で思い詰めてしまう前に、ご相談ください。お待ちしています。